アーメイ(阿妹)、と親しみを込めて呼ばれる歌手チャン・ホェイメイ(張惠妹)。
彼女の魅力は抜群の歌唱力と、表現力である。
アップテンポな曲では思わず体が動き出してしまうほどのパワーを、そしてバラードでは聴いているだけで涙がこぼれてきそうなほどの情感を。
静と動、その両方を遜色なく表現できる稀有な歌手である。
それはCDだけでなく、アーメイはまさに「QUEEN of LIVE」と呼ぶにふさわしい“生”での魅力を持っている。
歌・踊りに加え、ステージングで観客の心をつかみコンサートに参加させる。
そんな彼女の魅力は歌を楽しむ彼女の姿勢によるところが大きいといえる。それは彼女の生い立ちに由来するのだろう。
張惠妹は台湾の東海岸に位置する地方都市台東の郊外、台湾原住民族の一つピヌユマヤン(プユマ/ピュマ/卑南族)の集落で生まれた。
ピヌユマヤンは歌と踊りを愛する民族で、村一番の歌い手といわれる母親の影響を受けアーメイは育った。母は野良仕事の傍ら歌う歌をテープレコーダーに録音して子供たちに聞かせていたという。
子供の頃は年に2回ある村のお祭りで歌を歌うのが何よりの楽しみだった。友達が照らす懐中電灯をスポットライト代わりにして歌った。学生時代はあちこちの合唱大会に出場した。
しかし歌手になろうとは夢にも思っていなかった。ただ歌が大好きな子供だった。
高校在学時代、台湾のテレビ局台湾電視主催の勝ち抜き番組“五燈獎”に挑戦したのは入院していた父親のためだった。
順調に勝ち進んだが、グランドチャンピオン目前にして風邪を引き、本番で歌詞を忘れてしまったため敗退してしまう。
その後半年間、彼女は歌を歌わなかったという。
失意のアーメイをもう一度奮い立たせたのは病床でテレビを見ていた父の言葉だった。
「あの(テレビに出ている)人たちよりお前の方が歌が上手なのに、どうしてトロフィーを持って帰ってこないんだ?」
当時父親の容態は悪化していた。
アーメイはもう一度“五燈奨”に挑戦する。毎週台東から台北に通い、“五渡五關”と呼ばれる25人勝ち抜きを果たし、手にしたトロフィーを渡すはずだった父はその数日前に他界していたという。
彼女はそれを父の墓前に供えた。
五燈奨に優勝したが、なかなか歌手デビューの話はまとまらなかった。
アーメイは台北に上京し、姉の営む日本料理店を手伝いながら、従兄弟のバンドで歌い始める。その歌が評判を呼び、フォワードミュージック(豐華唱片)にスカウトされる。
当時まだ原住民族出身のPOPS歌手は珍しかったのだが、レコード会社の先輩歌手であるチャン・ユーシェン(張雨生)が目をかけてくれ、雨生のアルバムで彼とデュエットしてデビューを果たす。
1996年12月、アルバム『姐妹』を発表。バラード「原來[イ尓]什麼都不要」とピヌユマヤン民謡のメロディーを取り入れた「姐妹」が大ヒットし、デビューアルバムにして台湾IFPIチャート開設以来初めて連続9週売り上げチャート第一位の記録をつくり、台湾だけで累計売り上げは100万枚を突破する。
1997年6月に発表したセカンドアルバム『BADBOY』も連続9週売り上げチャート第一位、100万枚以上を売り上げ、台湾のみならず香港・シンガポール・大陸を席捲。デビュー半年で台湾音楽界のトップと目される存在になる。
しかしプロデューサーであり、友であり恩師ともいえる張雨生が交通事故で他界してしまう。
その悲しみを乗り越え、デビューしてわずか1年余りで高雄・台北のスタジアムコンサートを行い、台北では3万5千人を動員、台湾コンサート史上最高の動員記録を作る。
99年には台湾4箇所を皮切りに、ワールドツアーを敢行。台北では5万人を集め、当時単独コンサートが難しかった中国大陸でも6万人を動員した首都北京の工人体育場から始まり、広州・上海・昆明でコンサートを行い好評を博す。
2000年5月には中華民國(台湾)総統就任式にて原住民として初めて国歌を獻唱するも、それが中華人民共和国(中国)政府の怒りに触れ“封殺事件”と言われる大陸での出演CMの放送取りやめ、コンサートの中止などという事態に追い込まれる。
(中国政府は関与を否定している)
アメリカに短期遊学後、2000年12月にオリジナルアルバムを発表し、音楽活動を再開する。
その後デビュー以来在籍していたフォワードを離れ、ワーナー(華納)と契約。2001年夏には中国政府主催のイベントで大陸への復帰も果たす。
2002年5月、長年ノミネートされていたが受賞できなかった台湾のグラミー賞ゴールデンメロディー賞(金曲獎)にて“最佳國語女演唱人獎(最優秀国語女性ヴォーカル賞)”を受賞する。
8月には上海から3年ぶりのコンサートツアーを開始、10月の台北コンサートではあまりの盛り上がりに騒音問題まで取りざたされるほど。
2004年、大陸にCM復帰を果たすも台湾独立派とみなされ学生を中心とした抗議運動によりイベント出演が中止に追い込まれる(杭州事件)。
しかし8月には政治の都である北京で個人コンサートを成功させる。
この年彼女はある決断をする。歌手“張惠妹”としての仕事を一旦停止し、アメリカ・ボストンへ語学留学へ向かう。
彼女を知る人もなく、一人きりで自分の生活を自分自身の手で作り上げることで、アーメイは何かを取り戻した。
デビュー10周年の節目にあたる2006年はミュージカルに挑戦。企画段階から関わった《愛上卡門》(愛しのカルメン)上演を成功させる。
2007年にはEMIに移籍、10月には上海八万人体育場を皮切りに4度目のワールドツアーをスタート。
そして2008年には日本進出となる祝祭音楽劇《トゥーランドット》に主演、東京・大阪・名古屋で8万人を動員し、9月には彼女自身にとっても待ち望んだ初来日コンサートを果たすこととなる。
アーメイは人前で歌うことで自らの道を切り拓いてきた。
幼い頃から、そして今日も観客の声援に応えるように、歌い踊り、魅せ聴かせる。
彼女はいつも「自分は幸運だ」という。確かにデビューしてまもなく華語音楽界のトップに駆け上がったことは幸運かもしれない。しかしその影には幾度かの挫折と悲しみがあった。
しかしステージに上がった彼女はきらきらとした笑顔で客席に向かう。
アーメイはいつも困難を乗り越え、歌で私たちに勇気を与えてくれる。
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