article

2005年8月30日付聯合報に掲載されたインタビューです。
原文:阿妹,想當「給機會的人」【記者胡幼鳳、袁世珮、梁玉芳】
アーメイ、チャンスを与えられる人になりたい
記者原住民の芸能人として、お二人は自分のこの立場をどのように受けとめていますか?

『泥娃娃』巴奈 アーメイ今、原住民の歌手は多いですよ。たとえばパナイ(巴奈)さんみたいに、みんな音楽を創作する能力がすばらしいんです。先輩であるフー・ドゥフー(胡徳夫)さんも最近またアルバムを出されて、とてもうれしく思っています。昔とは違って、誰かが『私は原住民の歌手です』と発表したときの他の人の反応は『へー、そう、彼女そうなの?』って感じなんです。もっと以前には、原住民の芸能人は、たとえばタン・ランファ(湯蘭花)、シェン・ウェンチェン(沈文程)『In A Flash』胡徳夫といった方たちは、特に原住民の特色を前面に押し出してはいませんでした。でも私がデビューしたころは、ちょうど政府の方針が文化の多様性といったものを重視し始めた時期だったんです。客家とか原住民とか、台湾では少数派だったそうした文化を取り上げ始めていました。
そうした時期に私はうまい具合にデビューしたって言えると思います。いろんな番組が、たぶん台湾の文化の多様性を印象付ける目的で、私に出演依頼してくれたんでしょうね。新人だったし、番組に呼んでくれるってことはうれしいことでした。そういうわけで、そうした流れに乗って、1枚目、2枚目のアルバムには原住民的な要素がたくさん取り込まれているんです。

左からアーメイ、8番目の妹、SAYA SAYA子どものころから自分が原住民であるってことに誇りをもっていました。台北に来て高校に進学しても、自分は原住民だって悪びれずに言いましたし、嫌な経験もしたことはありません(アーメイ高校以前は台東の学校に行っていました。そこではもともと大部分の生徒が原住民だったので、(もっと)問題はありえなかったんです)。
台北に来て、すぐ思いました。台北の人はおかしいなあって。みんな眠らなくて平気なの?真夜中でも車が行き交っているし・・・、私のふるさとの村では、夜9時になったらもうとても静かなんです。

アーメイ今でも覚えてます。台北に来たばかりのころ、パブで歌っていて、バンドのメンバーとカラオケに行ったの。みんな私のこと、歌がうまいって思ってくれて、顔のほりも深いから、ただ気軽に「君、まさか原住民じゃないよね?」って聞いたんですね。で、私は言ったの「そう、原住民よ」って。そしたらみんなこんなこと言うのよ。「ごめん、ごめん」。
えー、どうして「ごめん」なの?原住民だって言い当てられたら、私はうれしくないの?どうしてそう思うの?私、ずっと考えてました。原住民だけど自分のことを原住民だって言いたくない人もいます。それは一般の人たちが「原住民はお酒ばっかり飲んでて、かわいそうな人たち」っていう偏見を持っているからなんです。でもそれが原住民の全てじゃないんです。とてもがんばってるし、とても可愛い一面もあるんですよ。

SAYA台北に来たばかりの頃、あるカルチャーショックを受けました。先輩と一緒に寮生活をしていた頃、みんなで泳ぎに行くってとき、先輩が聞いたんです。「水着持ってきた?」って。わたしは、変だなって思いました。え?水着って何?Tシャツ、短パンで川にドボン!って泳ぐんじゃないの?村では子どもはみんなそうでした。私、そのときまで水着なんて見たこともなかったんですよ。

記者ご姉妹が人気者になって、たくさんの原住民の子どもがお二人の後を追いかけて芸能人になりたいって思ってるんじゃないですか?

アーメイデビューして3、4年の頃、手紙をもらいました。「アーメイ、本当にありがとう。今ね、同級生がみんな原住民のこと知りたいって、たくさんの子たちが私と友達になりたいって言うのよ」。その手紙を読んで、私、本当にうれしかったです。
私たち二人が、いまこんなふうに暮らせているってことは、他の原住民の子どもたちにもできるってことだと思うんです。私はずっと信じてます。原住民や他の弱い立場にいる子どもたちにも、チャンスさえ与えてあげたら、きっと自分を生かせる自分の舞台があるんだって。

SAYA今でも覚えてます。姉が高3のとき、集落の幼稚園から中学校までの子どもたち6−70人をみんな集めて、毎日歌や踊りを練習しました。私たちに母語で古くから伝わる歌謡を歌うことを教えてくれて、古い踊りを「泰安のお祭り・狩猟の舞」っていう新しいものに再編成したり。村の長老たちはそれをそばで見ながら、みんな泣いていました。

アーメイそう、あの時、お年寄りに自分から教えてもらいにいきました。原住民の言葉はどう話すの?どうやって歌うの?私がメモを取っておいて、踊りの練習のときに「バラクァン」(ピヌユマヤンの男子の集会所)の前で中国語の発音記号を使って黒板に書いたんです。みんなで一緒に歌いました。わあ!震えが来て、鳥肌が立ちました。

SAYA私たちが初めて各集落の合同のお祭りに参加する(歌と踊りを競う)ことになったとき、ホントにたのしかった。そこに向かうバスの中でもう歌ったり踊ったり、クレイジーな感じだったわ。

アーメイあのときの6−70人の子どもたち、もう大人になったけど、今でも結束力がとても強いんです。今でも会えばあのときはああだったこうだったって話すんですよ。
これも思い出します。祭りのあの時、私は、勇者の舞を踊る男の子は体に椰子の葉を巻いて!新鮮なものがいいわ、そうじゃなきゃきれいに見えない!って言いました。彼らはお祭りの当日早朝から採りに行ったんです。わー!青々として大きくて、ひとりで3枚も。すぐに小学校の校長先生が飛んできました「誰だ、学校の椰子の木の葉を抜いたヤツは!一列まるごとハゲてるじゃないか!」(笑)

SAYAあの時、2ヶ月も練習して、ホントによかった。練習していると、村中の人が見に来たんです。

アーメイあの時、本当に村中が一つにまとまって、本当に心が癒される感じがしました。今の子どもたちは、生活の目標がないですよね、ただテレビを見て、ゲームをして・・・。また村の子どもたちに歌と踊りを教えたいって、今すごく思います。SAYAもいつも言ってるんです「お姉ちゃん、また踊ろうよ!でもホントに時間がないよね・・・」って。  【了】
翻訳:T.Tさん
 prev | article | next

問題があった場合は、事前の予告なく削除します。ただし無断転載はお断りします。
なにか間違いや気になる点があれば、メールかbbsでどうぞ

top | profile | FAQ | ANF | disc | lyrics | article | from A-mei | project | report | karaoke | aborigine | special | link | bbs

  A*mei-project / webmaster  jing