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2005年8月30日付聯合報に掲載されたインタビューです。
原文: 阿妹差點被人養 SAYA差點不唱【記者胡幼鳳、袁世珮、梁玉芳】
アーメイ、もう少しで養子に出され SAYA、もう少しで歌をやめるところだった
アーメイ、ドラマのために剃った頭を見せようとする台湾東部から来た「アーメイ(阿妹)」チャン・ホェイメイ(張惠妹)、小柄な彼女が、ひとたび舞台に立つと魅力あふれる女王となる。その歌声で、活動は台湾から、中国大陸、香港にまで広がっている。TIME誌の表紙を飾ったこともある。彼女は台湾原住民の誇りとなった。
アーメイより5歳年下のサーヤ(SAYA)ことチャン・ホェイチュン(張惠春)も、姉の歩みを追いかけ、大都会台北に人生の舞台を求めた。ずっと女王である姉の輝きから逃れることができなかった。しかし、2年間の沈黙のあと、ドラマ《名揚四海》(英題:Friends)の聴力障害のある女性の役で金鐘奨の助演女優賞を獲得。彼女は自信を取り戻し、やっと姉とは違う自分の人生を歩み始めた。
9人兄弟の家庭、7番目と9番目の彼女たち2人は、原住民である自らの立場を、ともに誇りであると語った。台東のピヌユマヤン(卑南族)の村は彼女たちの心のふるさとである、とも。機知に富んだ彼女たちの母は一家の柱であった。彼女たちが挫折を感じたときは、いつもはっきりとこう言って聞かせた。台東にかえりなさい、舞台に未練を残すことはない、と。9人の子どもを養うのは容易ではない。アーメイは語った「もう少しで人にもらわれて行くところでした。母が山奥にかくまってくれた。旅芸人に売られたり、養子に出されたりする運命から救ってくれたんです。」

以下にアーメイ(アーメイと表記)とSAYA(SAYAと表記)のインタビューを紹介する。
もしアーメイの妹じゃなかったら   「アーメイメイ」結成、アーメイは内心申し訳なく
個人データ対応表記者アーメイは前に言ってましたよね、SAYAがアーメイの妹じゃなかったら、もっと自由に生きられたし、もっと成功していたかもって。

アーメイそれはすごく前に言ったことですね。今のSAYAはもうすごいですよ。最初、SAYAといとこのRAYAが「アーメイメイ(阿妹妹)」でデビューしたのは私のせいなんです。あの時は、彼女たちが準備OKか、そもそもやりたいことなのか、全く考えもしないで私のバックコーラスに来てもらったんです。SAYAは我が家の末っ子で、8人の兄姉にずっと面倒を見てもらってきたのに、いきなりいろんなことに自分自身で向き合わなくちゃいけなくなって。私、ずっと申し訳なく思っていたんです。彼女に無理をさせてしまったんじゃないかって。え、泣いてるの?(アーメイはSAYAが泣いているのに気付く。すぐに手を伸ばしSAYAを抱きしめた)

SAYAいつも最初の頃のこと思い出すと(感極まる)
アーメイ彼女はプレッシャー、私は忙しすぎて)、プレッシャーの原因のすべてが「姉が大スター」ってことじゃなくって、都会に出てきて、たくさんの人の前に出るけど、まだ全然準備OKじゃない感じで。私はもともと独りじゃ何もできなくて、・・・あの丸印のところに行って!あ、反応できなかった・・・ステージに押し出される・・・それでまた自信をなくしたり・・・。あるとき、ずっと吹き出物ができて、鏡を見たくないって時期もありました。

アーメイ一家全員で食事をしてるときよくSAYAは言いました。「お姉ちゃん、私歌いたくないよ。疲れるの。みんな、あなたのお姉さんはどうだこうだって聞いてくるのよ」私も彼女をそばに置いておきたい気持ちがありますが、でも私たちが2人のユニットを組むっていうのもね。だから、意識して彼女と距離を置くようにしました、そうすればそれぞれが自由な空間を持てるから。私はとても心配していました。彼女が自分のやりたいことを見つけてくれるか、私にやらされているだけじゃないかって。でも彼女は本当に勇敢なんですよ(SAYAの肩をたたく)。

SAYA姉は「楽しいよ」って言うだけだったけど、一旦契約したら、もう取り返しがつかない。「阿妹妹」で3年やったんですけど、もうこれ以上続けたいと思えなかったんです。

アーメイ実は私もデビュー当時はなじめなかったんです。ステージの裏では震えていて、記者からマイクを向けられると、もう泣いていました。デビュー4、5年目には内にこもるようになってしまって、3日間部屋に閉じこもっていたこともありました。水を飲みに下の階に行ったら同居していた上の姉が驚いて、え!あなた家にいたの?
台東は永遠に私の家   小さい頃、SAYAをいじめて脱臼させた
記者台東の故郷はずっとお二人の原動力で、家族への思いも強いですね。子供の頃の話をしてもらってもいいですか?

アーメイ母は言うんです。「あなたがどんなに忙しくっても、どこにいたって、台東は永遠にあなたの家よ。」って。

SAYA豊年祭、年越し、父の墓参り、母の日、このタイミングでかならずお休みをとることにしています。小さい頃、母は姉たちに私の面倒をちゃんと見るようにって、私が少しでも泣いたら、すぐ姉たちが怒鳴られるんです。

アーメイ私と一番上の姉がSAYAの面倒を見る役でしたが、2人してSAYAのこといじめてたんです。冷蔵庫の大きなダンボール箱にSAYAを押し込んだら、彼女、怖がって箱をかぶったまま走り回って、転んで大泣きしたんです(そばでSAYAが大笑い)。それで箱を持ち上げてみると、SAYAは唇が紫色になるぐらいまで泣いちゃってて・・・。それでも私はまだ、この子、わざとらしいんだから、なんて思ってました。考えもしなかった、彼女の手、脱臼してたんですよ。

SAYAこどものころ、よく脱臼してましたね。母は山で野菜を作っていて、私たちはついていって草むしりをするんです(アーメイSAYAは走るのが飛ぶように速くって、家族は彼女のことを魚ちゃんとか小鳥ちゃんって呼んでました)。母は、トウモロコシや粟、サツマイモなんかを作っていて、トウモロコシを収穫した後は、子どもたちが競ってトウモロコシの粒をむしっていくんです。それが山のように積みあがっていくの。

アーメイ中学校の先生が家庭訪問に来ると、子どもたちがみんなトウモロコシにかかりっきりなのを見て、こう言うんです。まあ、えらいわねえ、でも宿題はやったのかしら?
母が畑を耕して、父は工場勤めだったけど若い頃から厳しい生活で肺を患って、幸せな暮らしではなかったんです。私たちが高校生や中学生の頃、父はずっと入院していました、結局10年以上も。
父の最期に間に合わず   空港で跪いて、どうか飛行機を出してください・・・
SAYA高校生の頃、父の病状が悪化してきて、臨終のとき、私と一番下の姉が台北から帰省するために、学校に休暇届を出しました。私が一番初めに病院に着いたんです。

アーメイ父の最期を看取れなかったこと、これが一番の心残りです(感極まって涙)。父が危篤のとき、私は台北でテレビの歌のコンテスト番組に出演していました。急いで空港に到着しましたが、雷雨が激しくて、飛行機が欠航になっていました。私と姉は空港でずっと電話していました。「お父さんまだ大丈夫?」兄が「大丈夫だ、早く来い!」私は跪いて空港職員に頼みました、お願いです、どうか飛行機を出してもらえないでしょうか?私は父が行ってしまわないか気が気じゃなくて。とうとう飛行機が出ることになって、急いで電話しました、飛行機出るからねって。そしたら兄が言ったんです「父さん、亡くなったよ」。私と姉は空港で大泣きしました。

記者お母様がお二人に与えた影響は大きいんですね、どんな方なんでしょう?

アーメイ母は無口な人です。母が言うには、物事に向き合うとき、ごり押ししてはダメだって。粟の穂に実がたくさんなってくると、頭を下げているように見えますよね。原住民の言葉にあるんです「豊かであるほどに謙虚であれ」っていうのが。子どもたちは驚いて母に聞いたんです「母さん、哲学を勉強したことあったっけ?」

SAYA中学の頃、友達と夜遊びするのが好きで、母に何度も注意されました。でもまたすぐに友達と約束して、真夜中に出かけたりして。ある日、母に肩をもんでくれって頼まれて、そのとき母に言われました「 魚ちゃん、あなたはうちの末っ子でしょ(SAYA息を飲んで)、言いつけを聞かないのはダメよ。もし今後あなたの身に何かが起きたら・・・(SAYA泣いている)、母さん、生きていけないわ」(アーメイもつられて、目を赤くしている)
山奥に隠れ もらわれていくことを逃れた   旅芸人 アーメイをつれてドサまわり!?
アーメイうちは9人兄弟で、親の負担も大きかったと思います。もともと父は私たち姉妹を親戚に養女に出そうと思っていたんですが、母が同意しませんでした。母は子どもたちを山奥に連れて行って2日間隠したんです。山の中で山菜を採って料理して食べさせてくれました。数日間隠れた後で、やっと家に帰りました。
いまだに思い出します。康楽隊(旅芸人の類)の人がある時、何回もうちに訪ねてきて、私を連れて行って、ドサまわりで歌や踊りをやらせたいって。私、それでも無邪気に、喜んでその人の前で歌とか踊りを披露したんです。このときも、母が私を山に連れて行ってかくまってくれたんです。

記者SAYAさんは歌手でデビューしましたが、自分に演技の才能があるってどうやって気づいたんでしょう?また、お二人はともに挫折を経験されていますが、そんなときどうやって乗り越えてきたんでしょう?

SAYA演技はゆっくり役柄に入っていけるし、大勢で一緒に作り上げるものだから、こういう点で私はOKなんです。とても苦手なのが、何か1つのことを独りっきりでやるってこと。演技と歌はまったく異質のものですよね。アーメイメイ(阿妹妹)が解散してから、2年間は仕事がありませんでした。連続ドラマ《名揚四海》(英題:Friends)を撮るようになって、ようやくゆっくりこの芸能界になじめるようになったんです。
国歌を歌ったことに後悔はない   分かってるよお姉ちゃん、なんてことないよね
アーメイ国歌を歌ったことは後悔していないんです、光栄なことでしたし。歌ったことがその後の事件につながって、両岸情勢の問題にまで・・・。起きてしまったら、それに向き合っていくしかない。母がとても心配してくれました。私は催眠術をかけるみたいに母に言い続けました「大丈夫、大丈夫」。実際、私が歌わなかったら、それこそ母にとってはうれしいことだったのかも。母の願いっていうは、私たちが台東に帰って、母と一緒に暮らすことなんです。

名揚四海SAYA私たち、ああいう問題がどうして起きてしまうのかは全然分からないんです。でも、姉は絶対大丈夫って、それだけは分かっていました。私たちはカトリックなので、ミサに行っていました。小さい頃、夜中に熱が出ると、母は子どもたちのために祈ってくれたんです。そうすると翌日には熱が下がるんです。すごいでしょ。
2年間仕事がなかったその頃、母が新店の5番目の姉の家にキリスト像を置いてくれました。ある日、私がキリスト像の前で祈っていたんです「私、疲れてしまいました。どこに向かって進めばいいのか。神様、私がこの世界でまだやっていけるって思うなら、私を導いてください」神様は答えてくれました。台東に帰ってすぐに、蔡監督(ドラマ《名揚四海》の監督、蔡岳勲)の電話を受けたんです。私に演技してみないかって。私は日本に10日間遊びに行って、帰国してみたら携帯に10件以上伝言が入ってた。彼はそんなにまでして私のこと待っててくれたんです!

アーメイ彼女は完全に耳の聞こえない人の役に入り込んでいました。家族の集まりのときも、ノートを片手に手話の練習、小鳥ちゃん!って呼んでも、全然気づかないんです。

SAYA私は演技に没頭すると、自分に耳があることさえ忘れていました。家族に呼ばれても音は聞こえずに、ただ相手の唇を読んでいたんです。あのドラマのおかげで、私は自信を取り戻すことができました。
やったことのないことをやる   留学 自分ひとりでやっていけることの証明
記者アーメイ、あなたは今年、今までやったことのないことをたくさんやりましたね、スーダンでのボランティアなど。これはどういった心境の変化でしょう。

アーメイ今年の初め、ボストンに留学に行きました。自分ひとりでも生活できるって証明したかったんです。最初の頃はやっぱり「私は張惠妹」っていう思いがあって、同級生に対してもこう思ってしまったんです「ねえ、あなたたち、私と話したいんじゃないの?」 
でも後になってこう思いました。誰が私のこと知ってるっていうの?こういう経験をして、私は自分自身とうまく付き合っていけるようになりました。自問するんです「私、今までやったことのないことであとどんなことができるかな?」。スーダンに行くっていう企画を聞いたとき、すぐにOKって答えました。
SAYAも外の世界でいろいろ試してみてほしいって思います。彼女、ダンスがすごくいいから、ニューヨークでまた勉強させなきゃって思うんです。

SAYA(目を見張って)私が!?無理だよ。

アーメイ絶対方法を考えて、あなたを行かせるからね!

SAYA誰と行くの?(アーメイ一人で行くのよ!SAYA爆笑)じゃあ、私は着いて1週間経っても空港で迷子のままよ。

記者お二人の夢はなんですか?

SAYAダンスの先生になりたい。ダンス教室を開きたいです。

アーメイ新人を発掘して育ててみたいです。その人がステージの上で輝いているのを見てみたいですね。
翻訳:T.Tさん
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