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2005年8月30日付聯合報に掲載されたインタビューです。
原文:「長大當阿妹」 部落孩子的夢【記者袁世珮】
「大きくなったら阿妹になりたい」 村の子たちの夢
SAYAの子供時代アーメイ(阿妹)は「発光体」。いつでも活力に満ち溢れているから、盛り上がらないライブなんてありえない。会場全体がナチュラルハイになるのだ。

一方、SAYA(ピヌユマヤンの言葉で「第一」と言う意味)は、いつも観客席でマネージャーやアシスタントのそばで微笑んでいるだけで、コメントするにも誰かを通していた。本当に自分で答えなければならないときも、か細い声で、まるで一家の末っ子みたいな感じだった。

いま、MRTの駅に足を踏み入れると、笑顔でキャッシュカードを宣伝するSAYAの看板が目に入る。振り返ると、アーメイがスーダンの子どもに寄り添うボランティアの広告。二人の言葉を借りれば、彼女たちは原住民の子どものお手本で、「大きくなったら阿妹みたいになりたい」というのが村の子どもたちの一番の夢だとか。

二人は初めから順風満帆だったわけではない。その距離はさほど遠くないが、台東と台北は全く別の世界だった。芸能界でのプレッシャーに、二人とも必死で立ち向かってきた。話し始めるにつれ、アーメイは、必死のがんばりの後に自信を持てるようになったことを、まっすぐに語ってくれた。SAYAは、新しいドラマのためにちょうど髪の毛をすべて剃り落とし、カウボーイハットをかぶっていたが、まだ一言も話さないうちに、涙をぼろぼろ流して、まわりのみんなをびっくりさせた。

アーメイは小さい頃からSAYAの面倒を見るのに慣れていて、「ちょっとまって」とやさしく言い、妹のためにケーキを注文し、あわてないでいいからと諭した。すると、素直なSAYAは話し始めるきっかけを探していたかのように、少しも包み隠さず自分の内心の脆弱さを吐露し始めた。

SAYAは家族の中で一番可愛がられてきた末娘だった。子供の頃、村の集会所前での踊りの練習をした。彼女もアーメイと同じくすばらしい踊り手だった。内向的な性格で、台東の実家にいた頃は、一日中家の中で裁縫しているような子どもだった。芸能界に入ったばかりの頃、姉であるアーメイはすでに目もくらむようなまばゆい光の中にいて、SAYAは混乱で自分がどうすればいか分からなくなったりもした。彼女は冷静に語った。2年間仕事がなく、真剣にキリスト像の前で祈り、神の導きを求めたことを。そうすると、彼女に、のちに賞を獲ることになるあのドラマの話が持ちかけられた。彼女は、これが神様の示してくれた道だと考えている。

アーメイは、観衆の目には、永遠にその輝きを失わない存在のように映る。しかし彼女も壁にぶつかったことがある。ふっと疲れきった表情を見せたり、眠れないと悩みを訴えたこともあった。女王にも耐え切れないプレッシャーがある。国歌事件、緑色のレッテルの件、こうしたアクシデントが彼女のトップスターの座を脅かしてきた。彼女の本分の良し悪しではなく、彼女自身にはどうすることもできない政治的な要因のために。事件の真っ只中にあったとき、彼女はホテルの部屋に身をひそめて大泣きしていたが、それでも精一杯心を落ち着かせてから台湾に帰り、マスコミの取材攻勢にも泰然と受け答えをしなければならなかった。彼女は慎重に言葉を選び、再び不用意に敏感な政治の話題に触れてしまうことを避けた。彼女は「大陸で歌う」ことと「台湾二千三百万人の市民の安全を守る」ことの二者選択を迫られた。

こうしたアクシデントを乗り越え、アーメイは多くの智恵を学んだ。社会への関心を高め、新たな自分への挑戦に生かしていくこととなった。10万ドルの仕事のオファーを断ってまで、彼女はアメリカに留学し、自分が観客の拍手を捨て、自分ひとりでも生きていけることを証明した。その後、「愛をスーダンに」の旅に参加したり、災害を受けた村落を慰問したり、また、一万人と風雨にさらされながら30時間の飢餓体験を体験したりもした。「女王」は人がそう呼ぶだけのこと。デビューして10年経った彼女は、これからは「チャンスを与えられる人になりたい」と言うのだ。
翻訳:T.Tさん
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