notes

踊るたましい

夏といえば浴衣・花火・盆踊り。

私は幼いころお寺の近くに住んでいたことがあり、お祭りは大好きだ。
もちろん当時の目的は「夜店での買い食い」だが、盆踊りを踊ることも大好きだった。
輪になって周りの踊りを見よう見まねでなぞり、間違えながらも踊りを覚えていく。ときどき親切な人がいて、手足のタイミングを声かけて教えてくれる。
繰り返し繰り返し踊ることで体が覚えていき、年に一度のことで踊り始めは戸惑うが、踊っているうちにだんだん動きを思い出していくのだ。

盆踊りはもともと宗教的な儀式だった。起源については諸説あるようだが、その意味合いとしては「精霊を迎え、死者を供養する」ということだと小さい頃に聞いた。
もちろんそんなことを考えながら踊っているわけではない。逆に踊っていると無心になる。

台湾の原住民族も夏にお祭りがある。
豊年祭と呼ばれているのでこちらは収穫を祝うお祭だ。
私が参加したプユマ族のお祭では、広場で手を繋ぎ輪を作り、足運びだけで踊りを表現していた。日本のように輪の中心に櫓はなく、踊りもいくつかの曲を除いて「この曲には、この振り付け」などと決まったものがあるわけではない。ステップにはいくつかのパターンがあり、音楽は民謡や流行歌をつなぎあわせたエンドレスメドレーが流れるなか、先頭の踊り手の判断でステップは適宜変えられ、それに合わせて続く踊り手たちもステップを変えていく。
音楽は休むことなく続く。長老の話によると、むかしは三日三晩ノンストップで踊り続けたそうだが、今は仕事や学校があるのでそういうわけにはいかないそうだ。

地元の人たちは先頭がステップを変えると、きっちりそれに合わせて変えていく。戸惑ってぐずぐずしているのは他所者のしるしだ。
しかも日本の盆踊りと違って手を繋いでいるので、ステップを間違うと隣の足を踏んでしまったり、露骨に周りに迷惑をかける。また手の繋ぎ方も単純に隣と繋ぐのではなく、隣の人の前で一人向こうの人と手を繋ぐので、自分の体の前で両隣の手がつながれているという形になる。
これは実にリタイヤしにくい。
輪から離れるときは両隣に言っても意味がないのだ。彼らとは手を繋いでないから。
自分の右手と左手をぐぐっと体の前に持ってきて、手を繋いでる相手どうしの手を繋がせて、やっと離脱できる。

踊っているときは無我夢中にステップを追っているので分からないが、輪から離れて眺めているといろんなことを感じる。
昔は部族間で戦もあっただろうから、これは村人の連帯を高める訓練であったのかもしれない。
男女の別が厳しいプユマ族でこうして男女交互に並ばせているのは、異性同士手を繋がせないための配慮か。あるいは手を繋がないまでも隣同士になることで腕や体が触れる。もしかしたらお見合いの意味も含まれているのだろうか。

この踊りにもきっと意味がある。文字を持たない原住民族が、体のリズムで伝えていった意味が。私はそれを知りたいと思った。

しかし知識だけでは物足りない。両手の自由を奪われて不自由なように見えて、
「ハッ、ハッ」と声を掛け足だけで表現する踊りもなかなか面白いものだ。
体で感じて、この感覚を自分の体に覚えさせたい。
そう思い、3度行って3度目でやっと5つのステップの全てを制覇した。しかしもっと難しい、いまは踊られなくなったステップもあるんだそうだ。

それぞれの踊りに、それぞれの意味が込められている。
それぞれの踊りに、それぞれの楽しさがある。

今度プユマの村に行ったときもわたしの体は5つのステップを覚えているだろうか。
あるいは20年くらい踊っていない河内音頭を覚えているだろうか。

今日も遠くで太鼓の音が聞こえる。

2003年8月31日
※ 7月にUP予定だったのですが、書き上げられなくて1ヶ月遅れの公開です。

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